国際歯科保健医療の現状と課題
深井穫博
社会資源と歯科保健医療サービス
歯科保健医療の役割には、①個人レベルおよび地域レベルでの健康教育を通して、口腔の健康を維持増進することと、②すでに歯科疾患に罹患している人々に対しては、疾患の進行を早期に阻止し、機能喪失を予防するために適正な処置を供給することとの二つの側面がある。これらを、いわゆるヘルスケア(保健サービス)とメディカルケア(医療サービス)と言い換えると両者の間には、社会資源と専門的技術、健康に対する効果と普及性、および人々のニーズの観点から極めて異なった特徴がある。
メディカルケアには、歯科疾患の疼痛の軽減や口腔機能の回復には有効な手段であり、人々のニーズも高い。しかしこのメディカルケアには、専門技術をもった医療スタッフの養成と医療施設の整備という社会資源が必要となる。しかもそれを公的なセクターで供給せずに私的セクターのみで行なわれた場合には、受療者側の医療費負担能力の問題があり、サービスを受ける平等性という観点からは著しい較差をその国の人々にもたらすことになる。また、健康の創造という観点からは、メディカルケアには限界がある。それに対して、ヘルスケアには、地域レベルの健康づくりへの効果と普及性という観点から有用となるが、個人やその地域レベルでの顕在化されたニーズは低い(図1)。
健康が、貧困、教育、居住、雇用などの社会的生活条件との間に密接に関連していることは、従来から認められていることであり、現在の開発途上国と先進工業国との間にみられる健康較差もこの地球レベルの富の較差に起因している。そして、健康を人々の基本的人権の不可欠な要素としている社会においては、歯科保健も含めて健康に対する責任は、個人いうよりも社会的枠組みのなかで考えられなければならない。すなわち重要なことは、国などの公的セクターの役割または介入の範囲や程度を適切に決定することと、乏しい資源を賢明かつ公平に配分し人間的なケアを供給しうる組織的体制を確立するための住民参加型のアプローチにある。
歯科疾患の罹患状況にみられる国際較差
齲蝕や歯周病に代表される歯科疾患は、その人の食品摂取状況と口腔清掃状況、および個体や歯の抵抗性によって左右される疾患であり、世界中のいかなる地域にもみられる。そして歯科疾患はその種類ではなく、重症度や分布が国によって異なるのであり、その予防手段は共通している。すなわち、甘味摂取制限、フッ化物応用に代表される宿主対策、および口腔清掃状態改善の三つの手段であり、これらを個人のセルフ・ケア、地域レベルのコミュニティー・ケア、医療の現場でのプロフェッショナル・ケアを適正なシステムとして構築構築することである。
これらの疾患の分布を世界レベルでみると、歯科疾患の罹患状態に二大趨勢があることが1980年代から指摘されてきた(WHO,1983)。すなわち、歯科疾患は、
(1) 多くの開発途上国では増悪化傾向にあること、(2) 反面、先進工業諸国の多くは改善傾向を示していることの2点であった。
当時、開発途上国においては、歯周病の罹患水準が未だに高く、また齲蝕の罹患水準は特に都市住民で上昇し続けていた。一方、先進工業国においては、齲蝕の罹患水準がすでに低下してきており、歯周疾患の罹患水準も中等度から低水準へと下降し始めていると考えられていた。この要因として、前者はフッ化物応用の普及であり、後者は、フッ化物応用が普及していない地域での砂糖消費量の増加に起因すると考えられた。そしてこの解決策として、治療対策の推進ではなく、齲蝕および歯周病の効果的な予防方法を保健施策として採用し、健康教育と健康促進を基盤として、地域住民の参加を得たコミュニティプログラムの立案することの重要性が指摘された。「2000年までに全ての人々に健康を」という潮流のなかで、(1) 5-6歳:50%の子供がむし歯なしであるようにする (2) 12歳:DMF歯数で3以下とする (3) 18歳:85%の者が喪失歯のないようにする (4) 35-44歳:無歯顎者の水準を1981年時の50%減とする (5) 65歳以上:無歯顎者の水準を1981年時の25%減とする、という年齢別の5つの口腔保健目標が設定された(WHO,1979)。しかし、それから20年以上たった現在でもこの課題のすべてが解決されたわけではない。
貧困と歯科保健状態
ここで歯科疾患を、国の経済状態と健康という観点からみると、貧困に基づく低栄養に起因した歯の形成不全および歯周組織への感染の拡大から引き起こされる全身症状や、その地域の悪習慣に起因する口腔ガンの問題などが一部の開発途上国での歯科健康課題となっている。歯科の二大疾患である齲蝕と歯周病をみると、貧困から脱出するための経済開発が、逆に歯科疾患を増加するという側面がある。すなわち、都市化は確かに人々の生活の利便性を向上させることになるが、その一方で伝統的な食習慣の変化と砂糖摂取量の増加をもたらし、齲蝕増加を引き起こす。しかも、社会資源の制約の中で歯科医療システムが構築できないために、歯科疾患が放置される場合や、安易な「抜歯作戦(forceps approach)」がとられる実態がある。歯周病をみると、口腔清掃法に関する健康教育や歯石除去などの医療サービスが不足している開発途上国では、その罹患状況の改善には課題が多い。
表1に、国別の医療従事者、12歳児のDMFTおよび一人当りのGNIを示した。確かに先進工業国では、砂糖摂取量の増加とともに齲蝕罹患のリスクは高まるが、それに対応するための保健施策が採用され、しかも医療サービスの量が確保されるために疾患量は低いレベルにコントロールされている。それに対して、開発途上国では、経済開発の進展によって歯科疾患が増加する一方で、医療従事者が養成されず、保健政策も不十分なために、貧困からの脱出の過程で疾患量が増加し、先進工業国との較差がますます増大するという「ねじれた現象」が生じている。
ここで問題となるのは、限られた資源のなかでいかに予防的サービスを普及するかである。しかし現実には、開発途上国には予防サービスはないがしろにされて、しかも歯科治療の実態は、抜歯などの比較的単純な処置に限定されることになる。それは人々の欲求が、一般的には、治療や機能回復のための処置に集中する傾向にあり、地域全体として優先される健康増進ならびに疾患の予防に対してはあまり要望がないからである。健康施策としての地域単位の健康プログラムの立案には、ヘルスサービス供給におけるプロフェッショナルの適切な役割と限界を明確にしておくことも不可欠となる。
歯科治療に対するニーズと適正技術
ところで、最も豊かな社会においても、すべての人々のニーズが十分に充足させる資源は持ち合わせていないし、有限の資源と無限のニーズとが仮定されれば、資源をめぐる多様なニーズ間の競合は不可避となる。この状況で必要なことは、適切な資源の配分理論であるが、これを医療経済および人道主義の観点からは、必ずしも世界レベルで確立されているわけではない。従来ヘルスサービスに対するニーズは、医学生物学的な視点から評価され、時には充足の可能性との関係すら無視して語られることもあった。しかし、このような医学中心のニーズの概念は、現在では先進工業国においても社会的にも受け入れられなくなりつつある。
例えば、Bradshaw,J(1972)は、メディカルケアに対するニーズを4つに分類することを提案している。すなわち、(1) normative need (科学的あるいは技術的に決定されるニーズ)、(2) felt need(個人自らが必要と考えるニーズ)、(3) expressed need (デマンドとして変換されたニーズ)、(4) comparative need (個人または社会間で異なる相対的なニーズ)である。従来から医療分野でニーズと呼ばれてきたのは、この�に相当するニーズである。そして、これらの医療ニーズへの対応には、「健康およびwell beingに対するなんらかの障害に対して、医療サービスは常に提供されなければならない」という考え方で定義された人道主義的アプローチと、「その医療介入がプラスの効用をもち、しかも一般に受認される方法で疾病を好ましい状態に変えうる場合に限り、これをニーズと認定する」という考え方のふたつのアプローチがある(藤村豊,1984)。
歯科治療に対するニーズへの対応は、限られた資源という制約とその国の歯科にかかわる疾病構造の中で行われるものである。WHOは、GNPに占めるヘルスケアにかける割合の基準として5-11%という範囲を提言しているが、そもそもGNPが低い開発途上国においては、高価で高度な技術に資金を配分することは困難であり、その社会に許容される適正技術の問題が喚起されることになる(Hobdell,M,1997)。また、WHOは1994年に歯科治療の技術的進歩に基づいて、三つのタイプの治療を定義している。すなわち
(1) 予防、セルフケア、および低い技術レベルでも可能な治療:PMTC、SC、フッ化物応用、シーラントなどの予防処置と、低技術で可能な単一歯面の充填処置(非侵襲性修復処置ART)である。費用の面では非常に安価となる。
(2) 中等度技術のレベルで対応する歯科治療:多歯面修復、抜歯、単純な歯周外科と可撤性補綴物が対象であり、侵襲性処置である。
(3) 最も複雑で高度技術レベルを要する歯科治療:インプラント、ラミネートクラウン、セラミックインレー、矯正治療、再生歯周治療、複雑な口腔外科処置などである。
これらの歯科治療は、先進工業国と開発途上国では、現状での分布が異なるが、これを将来的には、予防、セルフケア、低い技術での対応を主体にした業務分布のへとシフトしていくという予測であり提言であった(図2)。
開発途上国における口腔保健要員(oral health personnel)の養成
開発途上国では、表1に示したように、歯科医師は極めて少ない。自国に歯科大学がない国では、一部の者が外国での歯科医師免許を取得し、帰国後にその国の歯科医療を担うことになるが、国民の貧しさから、提供される治療サービスを住民が十分に受けられないというジレンマがある。この解決には、歯科治療の公的セクターを整備することであるが、私的セクターと公的セクターとが連携したシステム構築にはいたっていない実態が多い。しかも、多くの開発途上国には、伝統的治療者(traditional dental therapist)がおり、先進工業国レベルの教育を受けた歯科医師とが共存してその国の治療サービスが提供されている。ここで問題となるのは、先進工業国での歯科医師養成カリキュラムが、高度な歯科治療技術の提供を重視する側面があることであり、そこで養成された歯科医師にヘルスケアに対するモチベーションが不足していることがある。開発途上国での歯科医療を、教育期間に受けた理念で展開しても、受療者側にも医療環境の充実の側面からも無理があることである。むしろ、その国の社会システムのなかで、歯科医師がいかにして地域レベルでの健康向上のためのリーダーシップを発揮するかにある。
一般に口腔保健要員といえば、歯科医師、歯科衛生士、歯科助手であり、その国の実態に合わせてヘルスワーカーや学校教師が一定の研修を受けて口腔保健要員の一員と成る場合もある。これらによって提供される口腔保健サービスは、チームによって行なわれる。このチームには、国レベル、地域レベル、診療室レベルなどいくつかの場面があるが、このチームのリーダーシップを歯科医師が発揮することであり、その役割や社会から求められる使命は、先進工業国と開発途上国では異なることになる。その使命は、高度な歯科治療技術の提供よりも、むしろ、プライマリケア、コミュニティケアの展開として求められるものであり、そのための人材開発を牽引していく役割である。Sheihamらは、途上国でのcommunity dentistの役割として、(1) manager、(2) agent of socioeconomic development、(3) dental officer、(4) educatorをあげており、途上国における歯科医師の役割を提示している(Ogunbodede,E, Sheiham,A.,1992)。
住民のニーズをいかに健康づくりに転換するか
限られた社会資源のなかでの健康づくりに極めて有効なヘルスケアが、住民の顕在化したニーズでは逆に低いというギャップをいかに解決していくかの方策の1つにプライマリヘルスケアとヘルスプロモーションの理念がある。
プライマリヘルスケア(primary health care、PHC)は、1978年に旧ソ連カザフ共和国で開催されたWHOとUNICEFの共同開催による国際会議で採択されたアルマ・アタ宣言として提唱された概念である。PHCとは、基本的な(essential)ケアであり、地域の個人や家族に広く利用できるものである。この基本的活動項目として、(1) 健康教育(Health Education)、(2) 水供給と生活環境(Safe Water Supply and Basic Sanitation)、(3) 栄養改善(Food Supply and Nutrition)、(4) 母子保健と家族計画(Maternal and Child Health and Family Planing)、(5) 予防接種(Expanded Program on Immunization)、(6) 感染症対策(Prevention and Control of Locally Endemic Disease)、(7) 簡単な病気やケガの手当て(Appropriate Treatment of Common Disease and Injuries)、(8) 基本的医薬品の供給(Provision of Essential Drugs)の6項目があげられている。すなわち、PHCはその地域に身近で、主要な健康問題を解決するためのものであり、そのことに取組むことが、健康増進、予防、治療、リハビリテーションを含む総合的なヘルスサービスを生むことになる。そして、このPHCは、(1) ニーズ指向性、(2) 住民参加、(3) 資源の有効活用、(4) 関係組織の連携による包括的アプローチを通して達成されるとされている(Kaplio,L.A.)。
一方、ヘルスプロモーションとは、1986年カナダのオタワで開催されたWHOの第1回ヘルスプロモーション国際会議で採択されたオタワ憲章のなかで提唱され、「人々が自らの健康をコントロールし、改善することができるようにするプロセスである」と定義されている。健康問題の解決に,治療医学や医療制度以上に,環境の要因やライフスタイルを重視する政策が欧米で採り入れられるようになってきた背景があった。そのための方策としては(1) 唱道(advocate):健康の価値の提唱と再確認 能力付与(enable):人々が健康を得るための能力を得ていくプロセス : 調停(mediate):保健医療の領域を越えた分野間協力、という3つの戦略があげられている。さらにそのための具体的な活動方法として,・ 健康的な公共政策づくり、・ 健康を支援する環境づくり、・ 地域活動の強化、・ 個人技術の開発、・ ヘルスサービスの方向転換の5点が示されている。
これらのプライマリヘルスケアとヘルスプロモーションは、その国の社会資源のなかで、住民のニーズを指向しながら、住民が参画した健康づくりのプロセス促進するための方策であり、健康に関わる社会システムの構築の基本理念である。このプロセスが実は、住民がエンパワーメントされ、健康に対する価値に気づいていくステップであり、健康に対する地域レベルのニーズを高めることになる。図3に、国際保健医療協力の観点からみた開発途上国におけるヘルスプロモーション活動の段階を示した。なによりも、人々が健康の価値に気づいていくには、いくつかの援助側と現地との共同作業が必要であり、国際保健医療協力の意義もここにある。
文献
1) Ogunbodede,E and Sheiham,A: Oral health promotion and health education programmes for Nigeria-policy guidelines, African Dental Journal,6,8-16,1992
2) Joint WHO/FDI Working Group: Changing patterns of oral health and implications for oral health manpower; Part1,Int Dent J,35,235-251,1985
3) Hobdell,M: In developing countries(Pine,C.M.ed.: Community Oral Health,Wright,1st ed, Oxford,1997,298-305)
4) 石井俊文他訳:口腔保健要員養成プログラム その立案と展開-WHOの指針-、第1版、口腔保健協会、東京、1988(WHO,1986)
5) 石井俊文他訳:口腔疾患の予防方法と予防プログラム-WHOの指針-、第1版、口腔保健協会、東京、1983 6) Bradshaw,J.: The concept of social need, New Society,30,1972
7) 藤村豊:医療社会学の基礎知識-歯科保健計画を理解するために-(高木圭一郎監修:歯科保健計画の立案と評価-WHOの指針をもとに-、第1版、口腔保健協会、東京,1984,2-38頁)