健康プロジェクトの計画・実行・評価について
─受療行動について考える─
安藤 雄一
(国立感染症研究所・口腔科学部)
歯科保健医療の課題は数多いが、その中でわかっていて然るべきなのに数量的な解明がほとんど進んでいないものの一つに歯科における受療行動がある。
受療行動に関する官庁統計などによる各種調査は比較的整備されていて、受診率(受療率)の数値は、患者調査、保健福祉動向調査、国民生活基礎調査、各種保健統計などにより知ることができる。また最近ではインターネット環境の進歩により、利便性が増してきている【注1】。
しかし、患者の受療行動に影響を与えている要因については、何故か国内ではほとんど調査が実施されていない。さらに、健康指標としての受診率の意義に関する議論が極めて少ないように思える。
ここで重視したいのは後者、すなわち健康指標としての受診率の意義である。昨今語られている受診率の意義は、もっぱら医業中心の観点に立ったものばかりであり、健康指標としての観点から語られることは少ない。
受診率を医業の指標として捉えた場合、高いほうが歯科医師側にとって好ましいのは当然である。しかし、「健康指標」として捉えると、高い受診率は疾患の有病率が高いことを示す場合が多いので、必ずしも好ましいとはいえない。問題は、受診率を高めることが国民の健康状態の向上・維持に寄与しているかどうかである。さらにいえば、医療機関を受診することは、経済的にはけっして安価といえないことから、そのコストに見合っただけの効果が得られているかどうかという医療経済的な視点も必要となる。多くの場合、住民にとって歯科医院は「できれば行きたくない所」であろう。この基本認識を踏まえないと受療行動に関する議論は、歯科医師側の一方的価値観による論理に陥りやすくなる。
小児の場合、主要疾患はう蝕である。これについては、フッ化物を公衆衛生的に応用し、う蝕が減れば、受診率は低くなることが知られている1)。シーラントのようなprofessional careもあるが、これは従来の修復治療の一環と捉えたほうがよいので、あえて受診率を高める施策を採用する必然性はそれほど高くないと思われる【注2】。
一方、成人では歯周疾患対策の占める比重が大きくなるが、フッ化物応用のような有用な公衆衛生対策がないので、個別的な対応に依存せざるを得ない。そのなかで、歯科診療室の場が、プロフェッショナルケアの実践および健康情報発信の場(セルフケアのサポート)として期待され、「健康日本21・歯の保健」では、御存知のように「定期的に歯石除去や歯面清掃を受けている者」と「定期的に歯科検診を受けている者の割合」の割合を30%以上する、という目標値が設定されている。したがって、個々の歯科医師の果たす役割が重要であり、一定以上の受診率を確保することが健康政策上、すでに重視されるようになってきているのである。
しかし、よくよく考えてみると、受療行動の要因は未解明に近い状態であり、何に手をつけたら受診率が向上するかが明確ではない。また、現行保険制度がこれらの目標値達成の阻害要因と作用しており、保健政策と保険政策がミスマッチ状態であるなど、目標達成のための障壁は多い2)。
それらの障壁の中で最も重要なのは歯科医師の姿勢であろう。
歯周疾患の予防管理のための受診に関して多くの歯科医は、「患者の意識が低い」とか「歯周疾患を認識していない」と語る。しかし、よく事実を観察してみるとこれはおかしい。歯周疾患の調査法の一つに「自己評価(セルフチェック)」があり、歯周疾患の自覚症状と歯科医師による診査(ポケット測定)の一致度は高いことが示されている3)。つまり、このデータは、「住民は歯周疾患に気がついている」ことを示唆している。小児の初期う蝕がほとんど自覚症状を伴わない点に比べて対照的である。だからこそ、小児う蝕の例を真似て歯周疾患を集団健診でスクリーニングしようとする手法には限界があるのだろう4,5)。まして成人は小児ほど素直ではない。
ややもすると「患者の意識が…」と嘆きがちの歯科医師の側はどうか?一種の予防ブームのような現象が生じている昨今であるが、しっかりとした予防ケアを実施している歯科医院はまだまだ主流とはいえない。多くの歯科医師は「ちょっと…」いうためらいがあるのが実情であろう。実は患者側はそのことをよく知っていて、予防のために受診したいのに行くべき歯科医院がわからない、下手をするとまた治療で長引く、もしかしたら必要のない治療が行われる、などの潜在意識があり、受診行動を控えがちになっているのではないか?そして、これが前述した歯科医師側のやや腰が引けた姿勢とマッチし、現状における最適化状態を作り出しているのかもしれない。
受療行動の指標である受診率(受療率)は、以上述べたように複雑な側面を持っており、この拙文で書き切れるものではない。しかし、患者側の行動だけではなく、歯科医療全体、さらにいえば歯科医師の行動変容を示す指標でもあることは間違いないであろう。研究者の立場としては、この視点を忘れずに今後の調査などに関わっていきたいと考えている。
(注)
・注1:ただし公開されているのは、集計された情報だけであり、生データ(個票データ)は公開されていない。野口6)は、この種のデータの情報公開こそが日本にとって最も重要なIT政策であると指摘している。受療行動についても、いわゆる官庁データを解析することが容易にできれば、その要因についてかなりの情報を得ることが可能であり、国民生活基礎調査を分析した例もある7)。しかし現在のところ、この種のデータを解析するまでに要する手続きは容易とは言い難い。
・注2:小児の場合、学校歯科保健における治療勧告システムにより、高い受診率を促進するシステムがすでに確立しているといえる。
●文献
1)安藤雄一、小林清吾:歯科医療費の地域格差に関する研究� フッ化物洗口による歯科医療費の軽減効果について, 口腔衛生会誌, 44: 315-328、1994.
2)予防医療のマネージメント公開ワークショップ実行委員会編:公開ワークショップ 予防医療のマネージメント 全記録、オーラルケア、2000.
3)中村譲治、筒井昭仁、堀口逸子、鶴本明久:歯周疾患の総合診断プログラム(FSPD34型)の信頼性と妥当性の検討(1) -歯周疾患自己評価尺度と口腔内診査結果の関連妥当性について-、口腔衛生会誌、49: 310-317、1999.
4)深井穫博:わが国の成人集団における口腔保健の認知度および歯科医療の受容度に関する統計的解析、口腔衛生会誌、48: 120-142、1998.
5)深井穫博:患者さんを知る、石川達也ほか編、かかりつけ歯科医のための新しいコミュニケーション技法、40-47頁、医歯薬出版、東京、2000.
6)野口悠紀夫:ホームページにオフィスを作る、光文社新書、2001.
7)河村真:医療サービス受療率関数の推定および受療率の機会費用・所得弾性値の計測、医療費の自己負担増に伴う医療需要の価格弾力性に関する基礎的研究報告書; 第2章、49-105頁、医療経済研究機構、1998.