歯科臨床におけるヘルス・プロモーション
(Health promotion in dental setting.)
深井穫博
(深井保健科学研究所)
行動科学・コミュニケーションにおける一般性と個別性
歯科医師の説明をよく理解してくれて、感謝の表情にあふれ、しかも長期間にわたって信頼してついてきてくれる、あるいは自分の健康に積極的で、目に見えてその症状も保健行動も改善していく、このような患者ばかりを対象にした診療なら、医療者のストレスはなく、日々に歓びが喚起され、そのことがさらに医療の質改善へとつながることだろう。しかしよく考えてみると、患者にとっての「理想的な歯科医師」という表現は成り立っても、「理想的な患者」という見方は医療の本質からは逸脱したものである1)。
むしろ現実的には、医療者と患者との間で、どうしてもお互いを許容できないことがある。表1は、30代から50代を中心とした全国の歯科医師320名を対象とした調査結果の一部である。患者への説明に、言葉遣い、表情、場などにかなり配慮した対応を歯科医師がつとめている実態がみられる。その一方で、回答した歯科医師の70%が、「不満な態度で説明を受けつけてくれない」患者が約1割から3割程度いるという認識を示している2)。
本編ではこれまでに、保健医療における行動科学・コミュニケーションの理論について、できるだけ最新の知見(state of the health care)に基づいて一般論として示すことを試みてきた。しかし、患者が求めているのは、あくまで「わたしの健康」である場合が多い。そこで本稿では、患者の個別性への対応に、医療者側が理論や研究成果をどう活かしていくかということについて考察することにする。
臨床におけるヘルス・プロモーションと健康教育
日常的に臨床で行われている保健指導や患者への説明は、患者の自立的な保健行動を促すための情報提供であり、医療者と患者双方の情報の交流である。この情報の交流(健康教育)と、保健政策や支援的な環境を、個人の保健行動の発達として、包括的に捉えた概念がヘルス・プロモーションである。例えば、1986年のオタワ憲章ではヘルス・プロモーションとは、「人々が自らの健康をコントロールし、改善していくようにするプロセス」と定義され、Green LWは「健康的な行動や生活状態がとれるように教育的かつ環境的なサポートを組み合わせること」としている3)。
図1に、この保健行動の発達段階を、「行動(behavior:B)」、「行為(action:A)」、「継続的な実施(practice: P)」と表現し、それに関わる要因を概念的に示した。保健行動は、生まれてから長期間にわたって学習され、ほとんど無意識に行われる場合や、何らかの意図や契機がある行動など、その過程には個人の認知レベルが関与する。そして、この行動の発達は、健康教育や環境という外的要因を受け入れる心理過程(内的要因)を通して発現するものであり、これらの様態はいずれも個人によって異なる。
例えば、臨床におけるヘルス・プロモーションをこの概念枠組みで考えてみる。診療室が、地域や職場と異なる点は、健康情報に、治療が加味される点であり、その情報も、本人の保健・医療情報が主体となることである。そして、獲得される保健技術は、個別的なものであり、しかも行動の評価としての口腔内の改善や悪化をかなり患者自身が自覚できるところに口腔保健の特性がある。
ところが、同じ情報提供であっても、その気づきや知識のレベルに同じ効果を与えるわけではない。そして、この「B-A-P-B」と表現した過程も、必ずしも全ての患者が順調に進むわけではなく、この過程からの逸脱やあきらめがみられる場合もある。この時、医療者は実は「対応の難しい患者」と認識している実態がある。しかしここで医療者側が、この現状に対して、その患者が、①気づきや知識レベルが足りない、②知識はあるが、それに相応する医療機関に出会えない、あるいは、③健康情報は十分なのに「良い結果(自己評価)」の経験がない、④気づき・知識・経験は満たしているがたまたまその時の職場環境や精神的な余裕がなくて、A,Pを実行できない、などの推測できるパターンが多いほど「難しい」という医療者側の認識は低減するものであるし、素直に目の前の患者をみることができる。
医療者・患者関係と意思決定
さらにここで、臨床における意思決定を、健康情報の交流と医療者・患者関係から捉えてみる。図3に両者のコントロールや責任の度合いをから4つのパターンで示した4)。すなわち、①積極的相互参加(active participation)、②患者側の一方的な意思決定(independent decision making)、③医療者側の権威主義的な指導(authoritative guidance)、④両者の意思決定の放棄(decision making default)である。このなかで、1が最善であると医療者側が決めつけることは、安易な対応である。むしろ、②や③になる現状を医療側がどのように認識しているかが重要である。両者の関係性やその時の症状、臨床場面での状況から患者側が「一方的な意思決定」に陥ってしまう場合や、医療者側の「権威主義的な指導」にならざるを得ない時がある。これを相互が意思決定に参加するような関係に近づけるためには、医療者側がそのためのどのような方策を身につけているかが問題であり、そこには倫理性も関わる。これを医療者側があきらめたりしてしまえば、それは両者の「意思決定の放棄」として、医療から逸脱していくことになる。
なぜ患者は満足しないのか
患者が歯科医療に求めることは、何よりも症状の改善であり、口腔機能の維持・増進である。この治療の成果(outcome)を軽視して、いくら丁寧な説明や親切な対応に医療者側が心がけたとしても、最終的な患者の理解と満足は得られるものではない。しかし、そのアウトカムにいたる過程には、医療者側の患者の心理・行動に対する理解の深さやコミュニケーションの技術は欠くことのできない要素である。
保健医療における行動科学は、個別性のある患者の行動のなかにみられる一般性を追究するものであり、その一般性のなかで、さらに個別の行動に対する理解を促進するための科学である。そしてコミュニケーションは、「聴くこと」と「伝えること」の技術である。ここで、医療者側が陥ってはならない点は、この研究成果や技法という一般性に個々の患者を無理に当てはめ、マニュアル化した対応として実践を図ることである。むしろ、求められることは、医療者と患者という個々の関係と対応のなかで、その時の最善でしかも、医療者自身の個性にあった対応を追究することである。
本連載では、医療者と患者との関係や、健康づくりに寄与する歯科医療について考察を試みてきた。行動科学・コミュニケーションで興味がつきない点は、人間の謎の心理・行動に少しでも近づいて、目の前の患者を理解することを深めることにある。 自分を理解してくれる者の前では、不満はでない。
文献
1) Lahti S, Tuutti H, Hausen H, Kaeaeriaenen R:Patients' expectations of an ideal dentist and their views concerning the dentist they visited: do the views conform to the expectations and what determines how well they conform?, Community Dent Oral Epidemiol, 24, 240-244, 1996
2) 深井穫博,安藤雄一,瀧口徹,高江洲義矩:日常の診療における歯科医師と患者とのコミュニケーション,口腔衛生学会雑誌,54,366,2004
3) Green,L.W.,Kreuter,M.W.:Health promotion planning; An educational and enviromental approach, Mayfield Publishing, MoutainView,2nd ed.,1991,p1-32.
4) Tones K & Tilford S: Health Promotion-Effectiveness, efficacy and equity,3rd ed, Nelson Thornes Ltd,UK,2001,pp263-299
(The Quintessence,Vol.23,No12,2580-2581,2004)