フッ化物応用と健康
深井穫博
(深井保健科学研究所)
人々の健康とフッ化物応用
う蝕予防におけるフッ化応用は,生命科学の基盤に基づいた永遠のう蝕予防法といえる。これまでの長い歴史をみると, まず1901年10月,イタリアのナポリ駐在の米国検疫官Dr. Eager,J.M.は,DENTI DI CHIAIE TEETHという表題で米国公衆衛生局に報告書を提出した。米国へのイタリア移民の乗船前の検疫で,歯が異常に褐色に着色していた者が多くみられたという報告である。その後は,この歯が「斑状エナメル(mottled enamel),または斑状歯(mottled teeth)」として知られて,現在では「歯のフッ素症(dental fluorosis)」となっている。そして,飲料水中のフッ化物によるう蝕抑制効果が確認されて,1945年には,米国ミシガン州グランドラピッズ市で,人類最初のフッ化物添加事業が開始された。それ以降今日までこのフッ化物応用は,世界的に広く普及していて,水道水フッ化物添加法(water fluoridation)についてみると,約60カ国3億6千万人以上の人々を対象に実施されている。そして,先進国を中心に,フッ化物の全身応用および局所応用が普及した結果,小児う蝕の激減をもたらしている。
わが国をみると,1952年から1965年まで京都市山科地区で水道水フッ化物添加が試験的に行われた経緯があり,その後,公的専門機関からのフッ化物応用の有効性と安全性に対する見解と推奨は繰り返し公表されている(表1)。その一方でわが国のフッ化物応用は,先進諸国に比べて普及が遅れていると指摘されつづけてきた。
フッ化物応用をめぐる最近の動向
しかしながら,フッ化物応用の保険収載,フッ化物配合歯磨剤のシェアの拡大,人々の治療よりも予防を重視する意識,歯科医師の予防歯科指向,およびEBM(evidence based medicine),EBH(evidence based health care)の潮流,などが推進力となってわが国のフッ化物応用に徐々に変化の兆しがみられるようになってきた。
1999年11月には,日本歯科医学会フッ化物応用に関する総合的見解として「口腔保健とフッ化物応用」を公表した。そのなかで,(1)国民の口腔保健向上のためにフッ化物応用を推奨する,(2)わが国におけるフッ素の適性摂取量(AI Adequate Intake)を確定するための研究の推進を推奨する,の2点が強調された。また,2000年3月に発表された「健康日本21」では歯科保健目標を達成する手段としてフッ化物局所応用の普及が明確に位置づけられた。
さらに日本歯科医学会の答申内容を受けるかたちで,2000年度から3ケ年の計画で,厚生科学研究「歯科疾患の予防技術・治療評価に関するフッ化物応用に関する総合的研究」が開始された。その骨子は,(1)フッ化物の適性摂取量(AI)の推定と水道水フッ化物添加の技術的安全性の検討,(2)フッ化物の予防技術の検討と開発,(3)フッ化物応用の医療経済的評価と国際情報比較である。
2000年秋以降には,メディア報道が頻回にわたり水道水フッ化物添加について取り上げ, 12月には,日本歯科医師会が,「フッ化物応用(水道水へのフッ化物添加)に関する見解」を公表した。この内容は,先に示した日本歯科医学会の答申にある「国民の口腔保健向上のためのう蝕予防を目的としたフッ化物応用を推奨する」を全面的に支持するものであった。さらに,2001年1月から2月にかけての厚生労働省歯科保健課による全国衛生部長会議,主管課長会議などで,「沖縄県の自治体をはじめ全国複数の自治体で水道水フッ化物添加の動きがあり,自治体が今後関係機関・団体の理解を得て厚生労働省に対して技術支援要請があった場合には厚生科学研究班の協力を得てそれに応じる」という水道水フッ化物添加への道筋が明らかにされた1)。 このように,最近のフッ化物応用に関する動向は,まさにめまぐるしいものがある。これらの動きは,都道府県歯科医師会のフッ化物応用に対する姿勢にも影響を及ぼし,特に局所応用の積極的推進の姿勢が全国規模で大勢となりつつあり,これまでのフッ化物応用をめぐる経過からみれば,隔世の観がある。
フッ化物応用の普及度
ところで,う蝕予防のためのフッ化物応用には,(1)水道水フッ化物添加法(水道水フッ化物濃度調整法)water fluoridation,(2)フッ化物配合歯磨剤fluoride tooth paste,fluoride dentifrice,(3)フッ化物洗口法fluoride mouth rinse,fluoride mouth wash,(4)フッ化物歯面塗布法topical fluoride applicationがある。本来,フッ化物応用法は,公衆衛生的な施策として位置づけられている。その一方で,診療室でのフッ化物応用法が,人々の治療よりも予防を求める意識の高揚と,歯科治療に関してMinimal Intervention Dentistryの概念の広がりとが相俟って急速に普及しつつある2)。この概念は「最小限の侵襲による歯科治療」であり,エナメルの再石灰化現象などカリオロジーに基づくう窩の除去とフッ化物配合の修復材料の応用を主眼としている。そして,歯の修復治療(Operative Dentistry)中心から予防処置(Preventive Dentistry)中心の歯科医療への転換が歯科治療の「最新の技術(state of the art)」として喚起されている。
フッ化物応用のわが国での普及度をみると,フッ化物歯面塗布法では,1999年の厚生省歯科疾患実態調査をみても,「受けたことがある者」の割合は42.0%であり,その内訳は,「市町村保健センターまたは保健所」17.8%,「その他医療機関」24.3%である。1969年ではフッ化物歯面塗布法を受けた経験のある者6.0%であったに対し,以降6年毎に調査の度に増加している3)(図1)。健康保険でも,フッ化物歯面塗布法が19 年からう蝕増加傾向者への適用が認められた。さらに1999年には,フッ化物洗口法にかかわる指導が,健康保険に一部適用されている。フッ化配合歯磨剤の市場占有率をみると,1986年には10%であり,その後10年間約40%で推移したが,この5年の間に急速な増加傾向がみられ,最新の1999年では77%の市場占有率と報告されている(ライオン歯科衛生研究所調査)。フッ化物洗口法のわが国での展開をみると,1970年の新潟県弥彦小学校での開始以来,全国規模での展開が図られている。これは,水道水フッ化物添加に代わる公衆衛生的施策として普及してきた経緯があるが,施設での応用であるので,学校保健教育の一環としても位置づけられている(図2)。しかし,最新の報告をみても,その普及度は39都道府県1,986施設220,206名であり,全国の対象年齢者のまだ約2%に過ぎない(1998年3月31日現在,日本むし歯予防フッ素推進会議調査)。診療室ベースでのフッ化物洗口は,健康保険への導入など環境の変化から増加していることが推測されるが,その実態については明らかでない。
診療室におけるフッ化物応用
診療室でのフッ化物応用には,フッ化物歯面塗布,フッ化物配合歯磨剤,フッ化物洗口剤にかかわる指導がある。いずれもフッ化物応用には,長期間にわたる継続的応用が確保される必要がある。すなわち,対象者が診療室に定期的に来院することとその指導を受けて自主的に家庭で継続的に実施することがなければ,う蝕予防効果は期待できない。したがって診療室でのフッ化物応用への取り組みには実は,(1)定期的な予防処置と保健指導を中心とした診療室のシステム,(2)来院者の保健行動を啓発するための,行動科学とコミュニケーション技法に基づいた健康教育,(3)来院者の口腔内状態や生活の背景とリスク要因を適切に診断して予防手段を組み合わせることなどが前提となっている。
具体的な応用法としては,フッ化物歯面塗布法,フッ化物配合歯磨剤,フッ化物洗口の局所応用をいかに組み合わせるかの問題がある。どのようなフッ化物応用の組み合わせが,その来院者に妥当なのかは,フッ化物の一日摂取量と個人のう蝕発病要因によって決定されると考えられるが,水道水フッ化物応用など全身応用が行われていないわが国では,これらの局所応用を組み合わせることで高いう蝕予防効果が期待できるとされている。 その一例として,著者の診療室では,幼児・小児から思春期までは,フッ化物塗布は来院者の同意に基づいて,ほぼ全員に行っている(年2~4回の定期的来院時,APFゲルによる歯ブラシ法)。また,フッ化物配合歯磨剤は,小児から高齢者まで全ての年齢層を対象に,歯磨剤の選択法,使用量,使用法についての指導を行っている。フッ化物洗口剤については,来院者が自主的に求める場合以外は,隣接面う蝕の発生,歯頚部や隣接面の白濁,歯口清掃状態の悪化したときなどに,明らかにカリエス・リスクが高まっているときに,強く勧める方法をとっている。製剤はミラノールあるいはオラブリス(週5回法)を味や容器を説明した上で,患者が選択する。すなわち,個人の生活習慣,保健行動に起因するカリエス・リスク以外に,年齢や萌出後の歯牙年齢を基本的なカリエス・リスクと考えて,フッ化物歯面塗布とフッ化物配合歯磨剤はベーシックなフッ化物応用とし,それに個人のリスクに基づいてフッ化物洗口法を組み合わせるという方法である(図3)。
成人へのフッ化物歯面塗布については,PMTC後に,フッ化物配合研磨剤を用いた歯面清掃を行っているが,APFゲル法でのフッ化物歯面塗布を全来院者に医院のシステムとして行うわけではない。フッ化物洗口法は,本人が自主的に希望する以外では,その子供がフッ化物洗口を行っている場合に,両親など家族ぐるみでの洗口を勧めている。根面う蝕の予防に関連して,水道水フッ化物添加法,フッ化物配合歯磨剤などフッ化物応用の効果を示す報告は,1990年代から急増し,フッ化物応用が小児期のみならず生涯にわたる口腔保健に必須のものであることが示されている4)。しかし具体的に,成人へのフッ化物応用を診療室での予防システムのなかでどのように取り組むかは課題となっている。歯科治療のなかでフッ化物除放性修復剤の使用については,症例に併せて可及的に使用している。
フッ化物応用に対するインフォームド・コンセントに関連して,来院者にどのようにその効果と安全性を説明して同意を得るかは,継続的なフッ化物応用に欠くことができない点である。一般的に,来院者は個々の診療室を信頼に基づいて選択しているので,歯科医師が十分説明を行うことで,来院者の不安や疑問は解消できるものと考えられる。その説明のための根拠となる資料やエビデンスは,内外の専門機関,研究報告からも枚挙にいとまがないほど豊富である。ただ,う蝕予防効果は本人には確認できないものであるので,その診療室での来院者のう蝕予防効果の実態を示すなど身近な保健情報が有用であり,しかも来院者の「気づき」を促す保健指導が求められる5)。
インフォームド・コンセント,インフォームド・チョイスにおける問題は,公衆衛生的施策としての水道水フッ化物添加法や施設でのフッ化物洗口法導入の際の合意形成にあるが,何よりも重要なことは,質の高い健康情報の提供であり,専門家の地域での口腔保健に対する積極的な態度と保健医療にかかわる専門家同士の連携にあると考えられる。
フッ化物応用のStateof the art
フッ化物応用法は,本来,Community care,self care,professional careの連携のなかで行われるものである。特に地域での水道水フッ化物添加や幼稚園・小学校など施設単位のフッ化物洗口法など公衆衛生的な応用をベーシックなフッ化物応用とし,それに組み合わせるものとして診療室でのフッ化物応用があると考えられる。
フッ化物局所応用の組み合わせの効果や,公衆衛生的な応用にどの程度家庭応用と診療室での応用を実施することが妥当であるかについては,cost/benefitと地域のう蝕レベルによって決定されるものであり,今後,明らかにさていくものと考えられる。また,根面う蝕など成人への対応,再石灰化のための最適なフッ化物濃度,ハイリスク者をう蝕発病前に判定するための科学的指標,など果てしない研究課題がある6)。いずれ,わが国におけるevidenceに基づいたう蝕予防ガイドラインが示されるであろうが,そのための根拠のひとつとして,わが国におけるフッ化物の適性摂取量(AI Adequate Intake)を確定が急がれる。
地域での公衆衛生的なフッ化物応用は,今後さらに普及することが求められる。そのためには,質の高い健康情報の提供,住民の主体的な参画意識,保健医療にかかわる専門家の連携が地域での経験からも必要であると考えられる7~10)(図4)。
文献
1) 瀧口 徹:厚生行政の立場から21世紀の歯科保健を考える,公衆衛生,65(7),510-513,2001
2) Tyas,M.J., Annsavice,K.J., Frencken,J.E. and Mount,G.J.: Minimal intervention dentistry (FDI Commission Projects,1-97), Int Dent J, 50: 1-12,2000.
3)厚生労働省健康政策局歯科保健課:平成11年度歯科疾患実態調査報告,口腔保健協会,東京 4) Shay,K.: Root caries in the older patient: significance, prevention, and treatment. Dent Clin North Am, 41, 763-793, 1997.
5)石川達也,高江洲義矩,中村譲治,深井穫博編:かかりつけ歯科医のための新しいコミュニケーション技法,医歯薬出版,第1版,東京,2000.p62‐80.
6) Ten Cate,J.M.: Consensus statements on fluoride usage and associated reseach questions, Caries Res, 35(suppl 1),71-73,2001.
7)深井穫博,中村修一,小川孝雄,徳永一充,矢野裕子:途上国における学童を対象としたフッ化物洗口法の応用とその評価,口腔衛生会誌,49,262‐269,1999.
8)深井穫博:ザ・フッ素―予防歯科へのアプローチ「日常臨床における現状」,Dental Diamond,24(No333),39‐42,1999.
9)深井穫博,藤野悦男,三木昭代,岡 宏,蓮見健壽:幼稚園におけるフッ化物応用を中心とした歯科保健活動とその効果,口腔衛生会誌,49,430‐431,1999.
10)埼玉県・埼玉県歯科医師会:口腔保健推進ハンドブック-科学的根拠に基づいた口腔ヘルス・ケア-,2001 http://www.sainet.or.jp/~saishi/
(脚注)
フッ素とフッ化物の用語について
「フッ素(fluorine)」という用語は元素名である。フッ素という元素は,常温では気体であり,フッ化ナトリウム(NaF)やフッ化カルシウム(CaF2)というように,通常は他の化学物質と結合した形で存在する。国際純正化学応用連盟(IUPAC)による「化学命名法」によれば,現在では無機のフッ化物は「フッ化物(fluoride)」,「フッ化物イオン(fluoride ion)」とされている。う蝕予防に用いられているフッ素は無機のフッ化物であるので,「フッ素(fluorine)」という用語は用いないで「フッ化物(fluoride)」と呼称することになる。
(深井穫博: Dental Diamond,26(10):74-78,2001.)