食行動と動機づけ
深井穫博
(深井歯科医院・深井保健科学研究所)
はじめに
全国で、毎日、約120万人の人々が歯科医院を受診しているといわれています。疾患別の通院率でみると、男性では、高血圧症、腰痛症、糖尿病に続いて、むし歯の治療のための通院が第4位、歯周病は第5位であり、女性では高血圧症、腰痛症に続いて、むし歯が第3位に位置づけられています(平成16年国民生活基礎調査)(図1)。医療機関にかかっているという場合に、歯科疾患が原因となっていることがいかに多いかがうかがえます。
しかし、歯科治療には、“痛い”、“口をみせるのが恥ずかしい”、“通院期間が長くて億劫”、といったイメージがどうしてもあるので、できれば行きたくないところと考えている人が多いことも事実です。
一方、むし歯や歯周病に代表される歯科疾患は、食べている限り生涯、発病のリスクが伴うものであり、甘味摂取をはじめとした食生活に関する保健指導が歯科医院のなかで行われてきました。この保健指導は、生活習慣病の予防としての重要性が、歯科領域にとどまらず、保健政策のなかで再認識されるようになってきています。
外発的動機づけ(モチベーション)
保健指導は、日常の健康に関する行動を改善しそれを維持するための専門家による支援のひとつです。特に、行動変容における動機づけ(モチベーション)という概念は、保健医療分野に限らず広く用いられるものです。心理学では、この動機づけは、外発的動機づけ(外部からの働きかけや刺激)と内発的モチベーション(やる気)とに分けて考えるのが一般的です。
動機づけ研究の端緒として特に有名なものに、1902年に行われたパヴロフ(Pavlov IP)の実験があります。パブロフのイヌは、餌とメトロノームの音を繰り返し経験することによってメトロノームの音を聞くだけで唾液を流すようになったというものです。この結果から、「古典的条件づけ(レスポンデント条件づけ)」、「条件反射」、「強化」という概念が提唱されるようになってきました。 1930年代になると、ネコやラットを被験体とする実験箱を用いた操作主義を導入して、刺激(S)と反応(R)との間に、生体(O)の個別的な特性があると考え、S-R理論に対してS-O-R理論が提唱されるようになってきました。特に、米国のスキナー(Skiner BF)は、エサを得るためのラットのバー押し行動を自発的行動(オペラント)、これに随伴して提示されるエサを強化子とよび、 「古典的条件づけ(レスポンデント条件づけ)」に対して、「生体が環境に働きかける自発的な反応」を「オペラント条件づけ(道具的条件づけ)」として区別しました。このスキナーの理論は、強化と消去、目標行動に近い行動順に強化を与えていくシェイピング、スモールステップの原則など保健指導にしばしば応用されているものです。
学ぶ意欲の心理
一方、1960年代になると、この動機づけは、ひとつの認知過程として捉えられるようになりました。よく知られているものにバンデューラ(Bandura A)の自己効力感や観察学習という概念があります。大人が人形に乱暴している映像を見せた子供が、対照群に比べて、その後明らかに攻撃的になっていたという現象から、モデルの行動を観察中、学習者が直接強化を受けなくても、新しい行動が獲得され、それまでの行動に変化がみられるという現象を「観察学習」とし、学習理論におけるモデリングという考え方に発展していきました。
さらに、ヒトには外からの報酬の手段としてではなく、ある行動をすること自体を求める欲求があり、この欲求は「内発的動機づけ」とよばれるようになりました。そして、1980年代半ば頃には、これらの外発的動機づけと内発的動機づけを対立的に捉えるのではなく、連続的に移行することがあるのではないかと考えられるようになっていきました。
食行動と保健指導
食べるという行動は、ヒトが生命を維持していくための基本的な行動のひとつですが、長寿との関係にとどまらず、育児でも、あるいは成人の肥満の問題でも、食品選択や食物嗜好として脳機能や上記の心理的な観点から理解することが重要になってきます。
例えば、特定の野菜を好まない幼児を、その野菜を好んで食べる幼児数名と一緒に食事をさせると、その幼児が野菜を好んで食べるようになったという実験や、幼児がおいしそうに野菜を食べるビデオをみせることでそれを見た幼児がその野菜を好んで食べるようになったという現象から、観察学習が幼児の食物嗜好にもみられることが知られています(今田純雄編、食べることの心理学)。
あるいは、成人期における肥満予防を考えた場合、咀嚼によって生じる口腔固有感覚情報が、三叉神経および三叉神経中脳路核を介して、ヒスタミン神経の細胞体が存在する後部視床下部の結節乳頭核に伝えわり、その結果放出された神経ヒスタミンの活性化が、抗肥満作用のメカニズムのひとつとなっています。そのため、食事の際に噛む回数を増やす「咀嚼法」は、肥満症治療法の一つに位置づけられています。そしてこの「咀嚼法」を身につけるための有効な方法として、毎日、咀嚼法を行ったか否かを自分で記録していくという、自己記録法(セルフ・モニタリング)あります。これらの手法も動機づけ理論から生まれてきたものです。
まとめ
確かに、むし歯や歯周病はその罹患率が高く、国民病ともよばれているものです。その結果、疾患別の通院率では、歯科疾患が男女いずれも上位を占めています。しかしながら、この受療率の高さは、専門家による保健指導を受ける機会がそれだけ多いというポジティブな面もあります。歯科医院で行われる食生活指導は、単に歯科疾患の予防にとどまらず、全身の健康づくりや育児支援にも貢献するものと考えられます。
「深井穫博:食行動と動機づけ母推さん,母推さん,No.177,12-13,2009年5月」を一部改変