8020と成人歯科健診
深井穫博
(深井歯科医院・深井保健科学研究所)
はじめに
一本の歯の痛みで、眠れないことや、一日中食事が美味しくない。あるいは、前歯に自信をもてず、口臭を指摘されて、人前で話すのが億劫になったという経験はありますか。このような時、私たちのなかで、歯が急にその存在感をましてきます。また、中年期以降になって、自分の歯は、生涯、残ってくれるだろうかという不安が沸き起こってくこともあるでしょう。
症状がでて発病して初めて意識するということは、歯や口の問題に限らず、他の臓器についても、しばしば経験されることです。
疾病の中には、その原因がはっきりしないものも多く、その一方で、食生活や運動習慣を初めとした生活習慣が起因となって発病する生活習慣病の予防が保健施策のなかでも着目されています。しかしこの生活習慣というのは、長い間の個別的な経験で固定されてきた行動であり、これを修正するというのは容易ではありません。
歯科疾患は生活習慣病
むし歯や歯周病に代表される歯科疾患は、その原因も予防法も、その人の行動に大きく左右されるものです。例えば、甘味摂取、口腔清掃、歯科受診などいずれもその人の日常の行動です。“甘い物の摂り過ぎはいけない”、“歯はていねいに磨く”、“歯科疾患の放置は禁物”、といったことは、ほとんどの人が知っています。しかしそれにも関わらず、歯科疾患は国民病ともいわれるくらい高い罹患率を示しています。例えば、歯周病の初期症状である歯肉炎や歯石沈着のみられた人は、50〜54歳の38.6%、さらに進行し歯槽骨の吸収が始まった人では49.8%となり、合わせて約90%の人が歯周病に罹患しているという結果です(厚生労働省歯科疾患実態、2005)。あるいは、歯科疾患に関わる自覚症状をみても、約70%の人が何らかの自覚症状を有しています(厚生省国民福祉動向調査、1999)。
このことは、単に歯科保健に関する知識があるからといって、あるいは自覚症状があったとしても、それだけでは予防行動につながりにくいという現状を示しています。行動には、その人がおかれている環境にも影響されるのです。“わかっていてもできない”事情があるので、効果的な支援策が必要です。
こんな歯科健診なら受けてみたい
歯の喪失防止に重要な成人期以降の歯科健診は、十分には法制化されておらず、市町村が節目健診として実施している歯周疾患検診でもその実施率、受診率は低いままにとどまっています。むしろ歯科医療機関で歯のチェックを受けている人が少しずつ増えてきていますが、まだまだ広く定着しているとはいえません。
この成人歯科健診が、単に歯科疾患を早期発見するためだけであれば、その高い罹患率、有訴率からみても、多くの受診者が、歯科疾患の指摘を受けることになります。それは受診者にとっても愉快なことではありません。実際、成人期の歯科健診は口腔内の状態が良好な者の方が、より受診している傾向があり、本当にそれが必要な人からは忌避されているという現状があります。
しかし、その一方で、多くの人々が歯や口の問題で悩み、有効な予防法を自分が取り組める範囲で実施したいと思っている人が多いのも現実です。このような個人的な困り事や疑問に、応えてくれる場があり、しかもそれを大きな負担なく受けられるなら、多くの人々はその機会が提供されることを期待するでしょう。
日本歯科医師会:標準的成人歯科健診・保健指導プログラム
このような背景から、平成21年8月に日本歯科医師会から()新しい成人歯科健診」が提案されました。これは、単に歯科疾患を発見するのではなく、疾病のスクリーニングと効果的な保健指導とを一体化したプログラムです(図1)。
質問紙(20問)と簡単な検査によって、歯科疾患に罹患している可能性の高い人を拾い出すだけでなく、疾患に関わる日常の行動や環境リスクを評価して、その人に最も必要なアドバイスや保健指導を提供するというものです。その人に必要な保健指導というのは、一人ひとり異なるものですが、このプログラムでは、受診者を(1)知識提供や気づき支援が必要な者、(2)相談やカウンセリングを重視する者、(3)環境整備に対する支援が必要な者、(4)具体的な保健行動に関わる実技指導が必要な者、にあらかじめ質問紙票の結果から類型化してから、保健指導が実施されます。しかも、その保健指導の場面で、単に知識を提供したり、相談ごとに応えるだけでなく、歯科医師・歯科衛生士等と受診者が一緒になってその本人の行動の目標をたてることが大きな特徴です。この行動目標に沿って歯科健診後のフォローアップが行われます。
このプログラムは、日本歯科医師会ホームページに公開されていて( HYPERLINK "http://www.jda.or.jp/" http://www.jda.or.jp/)、現在、誰でも利用することができるようになっています(問合せ先:日本歯科医師会地域保健課 ℡03-3262-9211、担当藤山・伊丹)。
まとめ
生涯にわたる口腔保健の維持増進には、各ライフステージにおける効果的な対策が必要です。特に成人期の口腔保健対策は、これまで十分とはいえず、成人歯科健診は大きな課題となっていました。
今回、紹介した「新しい成人歯科健診」は、歯科健診を疾病発見型からリスク発見型・保健指導重視型へと転換するものであり、受診者の口腔保健の向上に寄与するための機会が増えていくことが期待されます。
「深井穫博:8020と成人歯科健診,母推さん,No.185,9-10,2010年1月」を一部改変