口腔ケアと8020
深井穫博
(深井歯科医院・深井保健科学研究所)
はじめに
“人は何歳まで生きられるか”ということと“私は何歳まで生きられるか、おるいは生きたいか”ということは別個な問題ですが、高齢社会の現実は、いま生きているということの貴さを、私たちに再認識させてくれるものです。 80歳になっても20歯以上の歯を残し、食べる、話す、表情を維持する、といった口腔機能が保たれているか否かは、その人のライフ(生命・生活・人生)に関わることであり、それを社会のシステムとしてどのように取り組むのかというのが8020運動の原点です。
本稿では、日常生活のなかで、歯・口の手入れという意味でよく使われるようになった“口腔ケア”について考えてみたいと思います。
ケアとは何か
外来語と日本語の対応は、ひとつの用語におきかえられない場合が多く、カタカナでそのまま使ううちに、日常語として定着していくことはよくあることです。ケア(care)もそのような用語のひとつです。ケアの本来の語義は、“注意を払い、気を遣うこと”という心構えや行動を含んだものであり、健康や口腔ケアに関していえば、“手入れをすること”、“お世話をすること”“手当てをすること”など、自己と他者の行為のいずれも含んだものであり、その根底には、病気と死に対する不安や恐れがあります。
一方、古くから“禍は口よりいで、病は口より入る”といわれることがあります。これは、歯・口の健康を維持することが、全身の健康づくりの基本的な要素のひとつであると共に、口腔が、生体の内部と外部の境界領域になっている極めてユニークな器官であることを示しています。
日常の手入れとしての口腔ケアと看護・介護における口腔ケア
1713年に貝原益軒は養生訓のなかで、「いま八十三歳にいたりて、なお夜、細字をかきよみ、牙歯固くして一も落ちず」と述べています。18世紀初めの8020達成者の一人だったのです。そのためか、本書の中には、歯や歯ぐきの手入れに関する記載が随所にみられます。この歯・口の手入れは、それから500年前の鎌倉時代にも記録されています。曹洞宗の開祖である道元禅師(1200-1253)は、「正法眼蔵」の「洗面の章」のなかで、楊枝を噛んでブラシにして、「よく噛みて、歯の上、歯の裏、磨くがごとく洗うべし。たびたびとぎ磨き、洗いすすぐべし。歯のもとのししの上、よく磨き洗うべし。歯の間、よくかきそろへ、清く洗うべし。嗽口たびたびすれば、すすぎ清めらる。しかうして後、舌をこそぐべし」と歯、歯間部、歯ぐきに限らず、舌の磨き方まで詳細に解説しています。
それに対して、看護の世界における口腔ケアをみると、イエール大学のバージニア・ヘンダーソンは、1960年の著書「看護の基本となるもの」のなかで、“患者の口腔内の状態は看護ケアの質を最もよく表すもののひとつである”と記し、看護において口腔内を清潔に保つことの重要性を指摘しています。
このような、本人の手入れと他者による世話という口腔ケアは、経験的にその効果が知られ、古くから取り組まれてきました。
医療における口腔ケア
歯科医療における口腔ケアは、口腔衛生(oral hygiene)の観点から、むし歯や歯周病の予防と治療の根本的なものとして位置づけられてきました。しかもこの歯を清潔に保つという習慣は、本人への歯みがきにとどまらず、母親による寝かせみがきの普及にも広がってきました。あるいは、診療室における専門家による歯面清掃の効果も知られるようになっています。しかしながら、日常生活における自己と他者への口腔ケアは育児のなかで定着することはあっても、例えば介護者である子供が要介護者の親の歯みがきをするといった行為の普及には至りませんでした。
この口腔ケアの意義を、全身の健康の観点から示したのは、佐々木英忠らが1991年に行った不顕性肺炎に関する研究の成果が最初です。肺炎の既往のある高齢者とそうでない高齢者の2群に、就寝前に歯肉部に糊状にしたラジオアイソトープを塗り、翌朝、肺シンチグラム検査を実施したところ肺炎既往者の70%にラジオアイソトープが確認されたのに対して、非既往者では10%に過ぎませんでした。このことから、唾液中の細菌数が少なければ、不顕性肺炎の予防につながる口腔ケアが注目されるようになり、佐々木の共同研究者の米山らによって、2001年の要介護高齢者施設における2年間の追跡調査報告で、肺炎予防の効果が確認されました。これ以降、高齢者医療はもとより、病院等における口腔ケアが急速に広がっていきましたが、その歴史はようやく10年になったところです。
歯と命
また、この10年間の間に、歯の健康と寿命に関する研究報告がみられるようになってきており、歯数を維持した者が、生存に有利であることが疫学的な追跡調査で明らかになってきています。
図1は、これらの研究成果に基づいて、わが国の統計情報から分析した結果を示しています。1975年から2005年までの30年間の日本人の歯数と平均寿命との関係をみると、この間、65〜74歳の歯数は男性で7.3歯、女性では9.5歯の増加が見られたのに対し、平均寿命ではそれぞれ6.8歳、8.6歳の延長がみられ両者をプロットするときれいな直線関係を示します。日本人の歯数の増加と共に寿命が延びていったことがわかります。
このような疫学的データは、歯の健康が全身の健康の重要な要素であるという“経験知”を、客観的なデータとして確認し共有できる時代になったことを示しています。
社会システムとしての口腔ケア
本人の手入れと、介護者や看護における口腔のお世話、そして医療における口腔の手当てという口腔ケアが、科学的根拠に基づいて示されるようになった結果、その実践は、急速に普及しつつあります。
一方、身体の内部と外部をつなぐ口腔という境界領域としての器官の特性は、そのまま、多くの専門職がこの口腔ケアに関わることを示しています。しかしながらそのための社会システム、あるいは保健医療介護システムは、まだまだ成熟しているわけではありません。ひとつの器官、そしてその人に対する包括的なケアを、多職種が連携して行うという社会システムは、私たちが、いま解決しなければならないチャレンジだと考えられます。
「深井穫博:口腔ケアと8020,母推さん,No194,12-13,2010年8月」を一部改変