ライフサイクルにおける歯・口の健康
深井穫博
(深井歯科医院・深井保健科学研究所)
歯・口に表れる生活習慣
私たちの身体の目、耳、鼻、口などの感覚器官のなかでも、歯・口は、会話する、食べる、味わう、口元の美しさや豊かな表情など多くの機能をもった器官であり、その人の心と身体の象徴でもあります。歯科医という職業柄、多くの方の口の中をみ、歯を失った状態に接することがあります。このとき、その人の歯科治療の経験やそのことに伴う煩わしさばかりでなく、食事や生活の様子までも、歯からうかがい知ることができます。また、「失ってはじめてわかる歯の大切さ」としばしば表現されるように、患者さんが、歯を大事にしなかったことへの後悔や、歯を失うことへの漠然とした不安とあきらめの感情を話されたり、こちらがその気持ちを察する場合があります。
むし歯と歯周病は歯を失う最も大きな原因であり、自然治癒が期待できない蓄積性の病気であるために、歯の萌出直後あるいは病気の初期症状での対応が効果的となります。これらはいずれも口腔細菌叢のなかのある種の細菌が異常に増殖することによって歯の周囲に歯垢(デンタル・プラーク)が形成され、これが原因となって発生します。そしてこの歯垢の形成能の最も高い基質は、砂糖(ショ糖)です。すなわち、むし歯も歯周病も、その発生と予防は、食べること、歯をみがくこと、歯科を受診することという日常の生活習慣や行動にかなり左右されるものです。
8020と歯・口の機能
この健康と行動という課題は、「保健・医療における行動科学」としてこの40年ほどの間に世界中で研究されるようになってきました。これは、「わかっていてもできない」という心理と行動のギャップと、年齢や身体的・精神的な状態から、自分だけではケアできない場合に、どのように家族や周囲の者が手助けをするかという健康支援の学問領域となっています。
ところで、8020というキャンペーンは、歯の数を強調するあまりに、歯・口の機能ということを忘れてしまう場合があります。歯は、口唇や頬、舌の動きのなかで、上下の歯が噛み合ってはじめて、食べること、飲み込むこと、話すこと、表情をつくるという機能に関与します。このような歯・口の機能を維持するには、20歯の歯が必要であるという意味であり、生涯一人ひとりの方がその機能を維持するための方策やケアの手だてが、8020という意味に含まれていると考えられます。
ライフサイクルと歯の健康
歯がなくても人は生きられますが、ライフサイクルでみると、生まれるときの歯がない状態から、歯が生え揃い、やがて失われていきます。しかし、本当は年をとるから歯がなくなるわけではないのです。実際に80歳になっても約2割の方は、20歯以上の自分の歯で噛んでいます。ここでいうライフサイクルとは、親が子に、あるいは子が高齢の親に、というように歯・口のケアには、本人だけでは解決できないことがあるので、それを共に生活する人たちの単位で考えたらどうなるのかという意味です。
私たちは、子供の時代に「噛み合う歯がない」、「前歯が揃っていない」という時期を経験します。どこか頼りない、気弱な時期です。乳歯は3歳には生えそろい、永久歯は6歳くらいから生え始め12歳頃には上下の歯が全て噛み合うようになります。不思議なことに、この上下の歯列が完成する時期と、第一反抗期、第二反抗期とが一致しています。自我に目覚め、精神性も高まっていくことと歯とは関連があり、歯の状態が親の子供に対するしつけの時期の一つの目安にもなるようです。
また17歳、18歳には「親知らずの歯」が生える場合があります。この歯は「智歯(智恵の歯)」ともよばれています。親にも話せないような悩みをもったり、精神性が高まっていく時期と一致していることもまた、何かを暗示しているようです。
成人になると、毎日がせわしなく、仕事や育児に関わる負担もあって、心理的な葛藤がさらにでてきます。自分のことや健康にはなかなか目がいかない時期です。WHO(世界保健機関)では、この35~44歳を予防のためのターゲットエイジと位置づけ、歯周病予防に重要な時期としています。そして歯の喪失は、歯科疾患実態調査によれば、50歳代から急激に増えていきます。10年間で平均4~5歯を失い、60歳代では7~10歯となります。
老年期では、健康な歯や咀嚼を保っている方もいますが、複雑な噛み合せになっている場合もあります。この噛み合わせの機能は、身体機能にも影響し、歯の清潔さの維持が、誤嚥性肺炎など生命予後にも直結することがあります。
今回、ライフサイクルにおける歯・口の健康づくりについて概説をこころみました。歯や口の状態は、その人の生活を映し出す鏡であると同時に、歯・口に関する煩わしさは、その人の社会性の消退をも引き起こすものです。このとき、本人ばかりでなく周囲の者の支援で行われるその年代にあった適切なケアが、その人の心と身体の生涯発達や生活の質を高めることに役立つと考えられます。
「深井穫博:ライフサイクルにおける歯・口の健康,母推さん,No.146,12-13,2006年9月」を一部改変