表情と口元
深井穫博
(深井歯科医院・深井保健科学研究所)
歯・口と表情
口をへの字に曲げた厳しい表情」、「口を尖らせた不満の態度」など口はある種の感情を象徴する部分となっています。わたしたちの顔には眉、眼、鼻、口などがあり、これらが約30種の表情筋によって動くことで複雑で微妙な表情となり、この表情筋が衰えると顔にシワが表れてきます。高齢者にしばしばみられる顔のシワは、その人の長期間にわたって示してきた表情の軌跡から推測される生涯を暗示しています。そして、顔のなかでも口とその周囲は最も可動範囲の広い部分です。
この表情筋は、顔面神経と自律神経の支配を受け、随意運動と不随意運動の二つがあることが特徴となっていて、意識して眉や鼻などを動かすこともできますが、自分の意志では表情を変えられない場合があります。そのため、顔の大きさや色、眼、鼻、口などの形態と配置や表情はその人を識別するための固有のものであると共に、感情を表現する「心の窓」ともなり、コミュニケーションに大きな役割を果たしています。すなわち、毛や衣服で覆われず、しかも正面を向いているヒトの顔は、裸の部分を最もあらわにしたところであり、相手とコミュニケーションをするときにほとんどの情報がこの顔に集中しています。
顔のなかの口の役割
動物の口の役割は、本来、食べ物を食べるということでした。生き物が生きていくためには栄養をとらなければならず、系統発生学的にみると、まず食べ物を掴むための硬い口ができ、この口の周囲に鼻、眼、耳などの感覚器官が集中して位置した顔へと発展していったとされています。さらに口は、相手に噛みついて攻撃する、歯を見せて威嚇するというような役割を担ってきました。
後者はいまでもヒトに時々みられるものですが、ヒトが直立歩行をするようになって、これらの口の役割は大きく変わりました。手で食べ物を取り、道具を用いて相手を攻撃するようになった結果、口の周囲は柔らかくなっていきました。この柔らかくなったお蔭で、口の周りが自由に動き、顔に豊かな表情が生まれ、その表情によるコミュニケーションが可能となったのです。さらに、口の形を自由に変えることでいろいろな声を出せるようになりました。こうして言葉がうまれ、口は相手とのコミュニケーションの道具として重要なものになったのです。
基本感情と口
ところで、表情はその人の感情をよく表すものですが、どのような感情が表情にあらわれるのか、そして相手はどこまで表情から感情を読み取れるのかという疑問が沸き起こってきます。これは「表情分析」という研究分野で広く追究されてきた課題です。そのパイオニアの一人であるエクマンは、1970年代に、この顔の表情から人が読み取ることができる感情には、①怒り、②悲しみ、③恐怖、④驚き、⑤嫌悪、⑥喜びの6つの基本感情があり、これらは国や文化を越えて共通しているということを日本、米国、チリ、アルゼンチン、ブラジルにおける調査で明らかにしました。そして、これらの表情を分析する手法のひとつとして、顔を3つの領域にわけ、特徴的な表情筋の動きで、各感情をコーディングするFACSというシステムを提案しています。顔の3つの領域とは、①顔面上部(眉、額)、②顔面中部(眼、眼瞼、鼻梁)、③顔面下部(頬、口、顎)であり、眼と口の周囲は感情表現の大きな役割を担っています。FACSにおける基本動作はユニット(AU)と名づけられています。眉を内側にあげる(AU1番)、舌をだす(AU19番)、唇の端を横に引く(AU20番)、目を閉じる(AU43番)などのです。これらのAUを組み合わせることで顔の表情を合成できることから、表情の再生や認知などコミュニケーション研究に広く活用されているものです。
歯の状態は表情にどこまで影響するのか
「明眸皓歯」といわれるように、白い歯ときれいな歯並びはその人の健康状態を象徴するものです。このとき、むし歯・歯周病とそれに基因する歯の喪失は、顔の対称性や審美性を損ない、成長期にみられる指しゃぶりや開口などによる口唇閉鎖(リップシール)の不足は、歯並びの乱れを引き起こします。
この歯の状態と表情との関係について、米国ミシガン大学のイングルハート博士らの研究チームが、2007年2月の専門誌に、小児とその保護者を対象とした興味ある研究報告を発表しています。小児に漫画の動画を見てもらい、その間の笑顔の様子をビデオ撮影しその結果を静止画像に落として口の開き方や口唇から見える歯の部分・数を計測して評価するという方法で調査が行われました。小児本人が自分の歯をどう思っているか、保護者の子供の歯に対する認識、そして実際のその子の歯の状態の3項目について笑顔との関係をみた結果、むし歯のない小児は罹患児に較べて、自分の笑顔を肯定的に評価しており、笑うときに見える歯数は多く、その子の笑顔に対する両親の評価も高いというものでした。むし歯があるという認識が、小児であっても無意識にその表情にまで影響を及ぼす可能性を示したものです。
最近、穏やかな笑顔が日本人から消えているように思われ、その一部が口腔内状態に基因するのであれば、口腔保健の果たす役割は大きいと考えられます。
「深井穫博:表情と口元,母推さん,No154,12-13,2007年5月」を一部改変