歯科受診と健康行動
深井穫博
(深井歯科医院・深井保健科学研究所)
歯科受診と健康行動
できるだけ行きたくないところのひとつに、歯科医院があげられることがあります。多くの場合、「歯が痛い」、「冠が脱離した」、「口臭が気になる」などの歯や口の中に症状があると、その煩わしから一日でも早く解放されたいという思いで歯科を受診します。歯科医院から連想されるこのようなネガティブなイメージや「口あける」、「歯を削る」など治療中の苦痛を考えれば、「できるだけ避けたい」という感情は無理のないことだと考えられます。その一方で、子供の歯並びが気になる、歯がなかなか萌えてこない、歯みがきの方法を指導してほしい、口内炎がなかなか治らず悪性ではないかと心配になってきたなど歯科医師に相談するための受診や、フッ素塗布(フッ化物歯面塗布)を定期的に行っている、歯石除去のための定期受診など、具体的な症状がなくてもその予防のために受診する場合や自分の歯・口の健康づくりに積極的な人々がいます。
「予防」という概念には、病気の発症そのものを防ぐものから、手遅れにならないような早期発見のための検診、あるいは治療による重症化の防止などいくつかのステージがあります。そしてこの「予防」は、本人だけでできるものと医療の専門家や地域の助けを必要とするものがありますが、たとえ専門的な検査や予防処置であっても、その前提に「本人がその気になって行く」という行動がなければ受診はないので、「歯をみがく」、「甘いものを避ける」、「フッ素(フッ化物)を利用する」と同じように、「歯科医院に行く」ということも予防行動(健康行動)のひとつと位置づけられます。これらの健康行動は、幼児期からの習慣や学齢期からの教育のなかで身について、無意識に行われるようになったものと、成人期以降に、個人の経験や健康情報を基盤とし、その行動の自己評価を得て獲得されるものがあります。特に成人期以降に、歯科受診を積極的な健康づくりの場として利用し、予防と治療を一体のものとして受診する人々が増えていくことが、患者の利益に繋がるものであり、その科学的根拠はこれまでの研究成果でも明らかになってきています。
患者側と医療者側のふたつの視点
患者が来院することを、英語表現ではdental visit、 dental utilization、 dental attendanceなどの用語が用いられています。日本語では行政の統計調査などで「受療率」として表現されることが多く、歯科治療を受けることを「受療」とし、歯科医療機関、職場、学校、地域などで歯科健診を受けることを「受診」と区別する場合があります。また、両者の違いが明確ではないので、歯科受診・受療行動と併記して用いることもあります。英語表現では、「意識して行く」、「利用する」といった患者側の主体性が含まれた用語であるのに対して、日本語では、患者側の姿勢が、どこか受身で「医療者が主、患者が従」というニュアンスが感じ取れ、このことが、歯科受診は積極的な予防行動に直接結びつかない一端を反映しています。また、医療の主体性に関わる歯科医療者側と患者側のギャップひとつとして、全国規模の約1、500名の就業成人を対象とした調査結果をみると、職場での歯科健診における「治療の勧め」に対して、「必ず従う」と回答した者は約30%であるのに対して、口腔内の症状を自覚した場合に歯科を受診する者の割合は約70%を示し、医療者側の考えと患者側の行動には大きな差異がみられています(1998、深井)。
歯科受診・受療行動の実態
むし歯や歯周病に代表される歯科疾患は、いずれも口腔細菌叢のなかのある種の細菌が異常に増殖することによって歯の周囲に歯垢(デンタル・プラーク)が形成され、これが原因となって発生します。そしてこの歯垢の形成能の最も高い基質は、砂糖(ショ糖)であり、食べている限り、生涯、歯科疾患発病のリスクは伴います。 特に小児期ではむし歯が、成人期では歯周病が、そして成人中年期以降高齢者では歯の喪失に伴う咀嚼など口腔機能の低下が大きな歯科保健課題となります。特に、むし歯や歯周病が原因で生じる歯の喪失は、50代以降急速にみられ、現在歯数は、65〜69歳で18.3本、75〜79歳10.7本となっています。「80歳で20歯以上を有する者」の割合はようやく20%を超えたに過ぎず、後期高齢者の多くは義歯などによる口腔機能の回復が必要となっています(2005、厚生労働省歯科疾患実態調査)。
その実態のひとつとして、「1年間で歯科を受診したことがある」者の割合をみると、受診者が35.1%であり、調査時に治療中の者は6.0%を示し、総数で41.1%となっています。性別でみると、男性38.5%に対して、女性では43.5%です。また、過去1年以内の治療経験者の中で、主な診療内容として「むし歯の治療」が59.1%と最も高く、「検診・指導(定期的なもの含む)」が6.0%、「歯周疾患の治療」が7.7%という結果です。すなわち、全国レベルでみれば、1年間に定期的な歯科健診や保健指導を受けている者はわずか2.5%にすぎません(1999、厚労省保健福祉動向調査)。
図1は、1999年から2005年までの歯科受療率を年齢階級別に示したものです(厚生労働省患者調査)。歯科の受療は、他科への受療と異なり、小児から成人期まで高い比率でみられます。このことが、歯科を身近に捉えるという日本人の心理に反映されています。しかし、ここで気になることは、歯の喪失など口腔内状態がそれ以前の年齢層に較べて悪化する高齢者において、65歳以降、歯科受療率が急速に低下することです。
歯科受診を“あきらめ”ない
この背景には、外来を中心とした歯科医療体系が高齢者の心身の特性に合致していないといった歯科医療提供者側の問題と、高齢者自身があきらめてしまうことや、その感情から脱却するための専門家の支援と連携体制が不十分であったことがあげられます。この“あきらめ”の感情は、高齢者の約20%を占める要介護高齢者においては、本人だけでなく家族の心理にも表れるものであり、平成20年度からスタートする「後期高齢者医療制度」において、歯科的支援が充実されるための課題のひとつとなっています。
「深井穫博:歯科受診と健康行動,母推さん,No158,12-13,2007年9月」を一部改変