歯の健康と長寿
深井穫博
(深井歯科医院・深井保健科学研究所)
歯・口の健康が意味するもの
人類の起源を探る場合に、発掘調査で出土した古人類の顎の骨や歯の化石は、その形態学的な検索ばかりでなく、遺伝子解析の面でも多くの情報を現代人に残してくれています。歯は、その人の生きていた年齢を推測するだけでなく、摂取していた食物などその時代の生活まで数百万年後の私たちに伝えてくれるのです。歯の健康は、その人の生活習慣を色濃く反映するとともに、人類の歴史をも伝える役割をこれまで担ってきたといえます。
歯・口の機能(口腔機能)は、咀嚼と栄養摂取という生命の維持に欠かせない機能であり、加えて発話、表情など他者との交流のためのコミュニケーションに直接関与する基本的な生活機能と位置づけられます。一方、口腔の疾患と口腔機能の障害が、その人の全身の健康に影響を与えることがこれまでに科学的に報告されるようになってきました。
口腔と全身の健康との関連性
例えば、ある種の口腔内細菌が誤嚥性肺炎の原因となり、適切な口腔ケアによって高齢者の肺炎による死亡を約40~50%予防できることが今から10年ほど前に明らかになっています(Yoneyama Tら、1999、2002)。また、1960年代にはじめて糖尿病と歯周病との関係が報告されて以来、両者の関係についての研究が積み重ねられ、現在では歯周病が糖尿病を増悪するリスクファクターの一つとなることが指摘されています(Benneniste Rら、1967、Finestone AJら、1967、Taylor GW、1996)。わが国においてもすでに、歯周病は、腎症、網膜症、神経障害、大血管障害、小血管障害に次ぐ糖尿病の第6番目の慢性合併症と位置づけられています。加えて、歯周病は、糖尿病だけでなく、虚血性心疾患などの循環器疾患のリスクを高めるという研究結果も報告されるようになってきました。
さらに、このような口腔と全身の健康の関連性は、全身疾患との関連ばかりではありません。歯の数が保たれ、適切な咀嚼・咬合状態が維持されるか否かが、栄養摂取状態に直接影響を及ぼすことはもとより、日常生活動作などの運動機能や、生命予後にまで影響するという科学的根拠が蓄積されるようになってきたのです(Shimazaki Y ら2001、Yoshida M ら、2005、Yoshihara A ら、2005、Fukai Kら、2007、2008)。実際、わが国における複数の地域における横断調査でも、歯数が多いほど、あるいは歯周組織の状態が良好な者ほど明らかに医科の医療費が低下するという実態が報告されています(香川県歯科医師会、香川県国民健康保険団体連合会、2005 他)。
歯がなくても生きられるか
野生動物を考えた場合、歯が失われることはそのまま生命の危機を招くことは容易に想像できます。それに対して、私たち人間には、調理や栄養価の高い食物の摂取と歯科医療による義歯の装着などによって、歯の喪失はそのまま生命の危機に直結することはないと考えられていましたが、長期間でみたその影響は必ずしも明確ではありませんでした。
1990年以降、先進工業国を中心に歯数と生命予後との関連性を指摘するコホート調査結果がいくつか報告されるようになってきました。しかしながら、高齢者を中心に施設入所者を対象とした調査が多く、性差に関する結論も一致していないため、両者の関連を明らかにするには、成人期以降の地域住民を対象とした長期間の追跡調査が求められていました。
歯数と生命予後との関連に関する追跡調査
著者らは、5,000人規模を対象に15年間の回顧的コホート調査を行い、歯の保存状態と生命予後との関連を検討しました(深井、2004、Fukai Kら、2007、2008)。調査方法は、1987年に沖縄県平良市・下地町・多良間村において実施された歯科疾患および全身健康状態に関する調査結果をベースラインデータとして、口腔健康状態(歯数)とその後の生命予後との関連について分析したものです。対象者は、5,719名(40~89歳、男性2,268名、女性3,451名)であり、追跡期間は1987年10月から2002年12月までの15年2ヶ月間です。その結果、80~89歳の年齢群では、男女共に歯数が多いほど生命予後が有意に高いという結果が示され、男性では40歳以降の全年齢層で解析しても、機能歯数と生命予後との間には有意な関連がみられました(図1)。
さらに、義歯の装着の有無と生命予後との関連をみると、女性では義歯装着群の生命予後が、義歯未装着群に比べて有意に高いという結果が示されました。
8020の意義とこれからの展開
この調査結果からみると、成人期以降の歯数は明らかに生命予後に関連する因子のひとつであり、生涯にわたる歯の保存が生命の維持の観点からも重要であることを示すと共に、たとえ歯を喪失しても、義歯装着による咀嚼機能の回復のために、高齢者が歯科治療をあきらめてはならないことが理解できます。
歯の喪失は、医療環境と生活習慣の異なる発展途上国および先進工業国のいずれにおいても年齢と共に増加し、その大きな要因はむし歯と歯周病です。これらの口腔疾患は、いずれも口腔内細菌が異常に増殖することによって引き起こされる疾患であり、この病態と歯の喪失が、ある種の全身疾患や生命予後に与える影響を追究することは、高齢社会における健康長寿の実現に欠かすことができないひとつのアプローチになると考えられます。
「深井穫博:歯の健康と長寿,母推さん,No.170,12-13,2008年9月」を一部改変