歯・口の健康と保健行動
深井穫博
(深井歯科医院・深井保健科学研究所)
はじめに
平成元年からスタートした「8020運動」は、今年で20年目を迎えました。高齢者の歯の保存状況は、年々増加傾向にありますが、80歳で20歯以上を有する人の割合は、ようやく20%を超えたところです。これまでの20年の間に、生涯、自分の歯で食事し、会話を楽しみ、生き生きとした表情を保つことが、全身の健康維持の観点からも極めて重要であることが、科学研究の成果として蓄積されるようになってきました。
今後は、単に歯数の維持ということにとどまらず、義歯をはじめとする咀嚼機能の回復の重要性を示すと共に、さらに住民参加型の国民運動への転換が必要です。
そこで本稿では、人々が自分の力で、歯・口の健康を維持するための保健行動(口腔保健行動)について考えてみることにします。
歯を清潔に保つ口腔清掃行動
歯を磨くことは整容行動の一つですが、保健や医療の分野では、口腔疾患の予防手段のひとつとして位置づけられ、歯科医院等で受ける保健指導の多くの時間は、この口腔清掃指導にあてられています。特に成人期以降は、歯周病の進行と歯の喪失などの口腔環境が著しく変化する時期であり、その本人の対処行動を通した学習のなかで口腔清掃は定着していくものです。
実際、わが国の小児から成人期までの口腔清掃状況は、極めて高く、適切な口腔保健情報を得ることによって、生活行動から予防行動への転換が可能です(図1)。ところが、高齢者のなかでも特に要介護者の口腔清掃は劣悪な状況におかれていることがたびたび指摘されてきました。口腔清掃は、歯科疾患の予防にとどまらず、誤嚥性肺炎の予防など全身の健康の維持に寄与し、周囲の人々による支援行動のひとつに位置づけることができます。乳幼児に対する母親の仕上げ磨きがようやく定着してきていますが、これからは、家族が高齢者の歯・口の健康にも目を向けることが必要です。
歯科医療者の支援を受けるための歯科受診・受療行動
生涯における歯科受診・受療行動をみると、75歳以上の高齢者で急速にその受療率が低下する傾向があり、この年齢層における口腔保健状態との乖離がみられています。そして、これを解消するためのひとつの方策として、在宅歯科医療の推進が図られるようになってきました。
また、成人期における歯周病予防をはじめとする定期的歯科受診は、糖尿病や虚血性心疾患などの全身疾患の予防にも効果的であることが指摘されています。歯科受診・受療行動に関連する因子は、その症状や受診理由によって異なるものですが、いずれの場合も、①受診者の口腔疾患に対する主観的評価、②医療者による客観的評価、③歯科医療サービスの量、④歯科医療サービスの質、という4つの要素にまとめることができます。このなかで歯科を受診するという保健行動が、治療から予防へと変容していくためには、口腔内の評価を自分で行うことが不可欠です。特に医療者とのコミュニケーションのなかで、積極的に「質問すること」などを通して、歯科医療に「参加」していくことが必要です。歯科医療者の役割も、これまでの「指示中心」から「支援中心」へと変化してきています。
食品を選択し食べ方を考える摂食行動
食べることは、人が生きていくための基本的な行動であると主に、生きる楽しみや慰めにも直結するものです。小児期の摂食行動は、栄養摂取として、成長発育に直接関与します。甘味摂取の課題は、肥満やむし歯予防に極めて重要であり、小児のおける甘味摂取指導として歯科医療の体系の中でも位置づけられてきました。成人期をみると、摂食行動は、生活習慣病対策の大きな柱であり、よく噛んで食事をするという咀嚼法は、肥満症治療にも位置づけられています。高齢者や要介護者では摂食機能が低下することは、誤嚥や低栄養の問題として生命の維持に直接関わり、歯科医療のなかでも摂食嚥下機能療法とよばれています。
摂食行動の変容という観点からみると、食事は、日常生活の基本的な習慣であり、極めて個人的な行動です。そのためそれを変えることは容易ではありませんが、記録法などの認知行動療法を用いたアプローチの効果が報告されています。
まとめ
むし歯や歯周病に代表される口腔疾患は、硬組織のしかも不可逆性の疾患であり、生体の自然治癒能力はそれほど期待できないと考えられてきました。しかし、口腔疾患は、その発病も予防も本人の行動に左右される点が大きいのが特徴です。本稿で述べたように、歯を磨く、よく噛む、歯科を受診するといった行動は本人の自覚に基づくものであり、その意味から口腔疾患を治す力は、その人にあるのです。
また、口腔と全身の健康との関連が次第に明らかになってきており、口腔保健行動は、口腔疾患の予防にとどまらず、全身の健康を創り出すための行動のひとつと位置づけられるようになってきています。
「深井穫博:歯・口の健康と保健行動・生活習慣,母推さん,No.174,2009年1月」を一部改変